sebata’s blog

  • 死と再生の間の生命の探究 ⑴

    2,025語、読了時間11分。


    この世の私たち人間にとっての死と、さらに死んだ後の次の転生までの間の生命の有り方を知るためには、まず、霊的な知識の獲得が必要であり、そしてその知識を得る前段階として、予備的ないくつかの概念を知ることが重要なのです。

    透視に必要な条件


    私たちが霊的知識を獲得するためには、魂の特別な性質が必要であり、これは、この世の日常生活における通常の魂の性質とは根本的に異なるものです。

    この世の外界の生活、特に現代における日常生活では人間の魂は絶えず不安な状態に置かれています。私たちの魂は一日中絶えず新たな印象にさらされていて、それらの印象と自分自身を同一視するために、常に不安な状態にあるのです。

    私たちが意識的に霊界に参入しようとするのであれば、つまり意識的に霊的世界を透視しようとするのであれば、この日常の魂のあり方とは正反対のことが起こらなければならないのです。

    私たちが霊的世界を透視しようとするとき、そこに感覚体験が伴う霊界参入をしようとするとき、そこで得られる霊界での経験を理解するために必要とされる第一の条件は、魂の完全なる内的な安らぎと安定なのです。

    この魂の静寂は、私たちが考える以上に達成が難しいものです。私たちが自分の魂の内なる静けさを得るためには、あらゆる不安、興奮、心配を止めなければならないのです。

    実際、私たちが霊界のより高次の世界領域へと意識的に参入することを求めるのであれば、この世の外界へのあらゆる関心を消し去らなければならないのです。私たちは霊的世界の出来事が目の前を通り過ぎていくように、その一点に立ち止まり、そこから決して動かないと決意したかのように振る舞う必要があるのです。

    この物質世界の日常生活では、私たちは物事から物事へと移り変わります。けれど物事自体はそこで静止したままなのです。しかし、霊界ではそうではありません。霊界では自分の思考活動によって、自分が固定されている地点へと物事を近づけなければならないのです。

    私たちはいわば自分自身から抜け出し、物事に浸透し、そしてそれらの物事を外側から自分のところまで持ってこなければならないのです。これは私たちの魂にとって恐ろしい経験につながるかもしれないのです。

    あの世に準備はこの世でしかできない


    この世の地上での通常の生活においては、私たちは物事を変更し、自分が誤って認識したり行ったりしたことを正すことができることを知っています。しかし、霊界では最早そうすることはできないのです。そこでは、物事は霊界に入った時の私たちの状態に応じて、それが真実かまたは偽りの形で現れるかに気がついていくのです。

    したがって、あの世である霊界を正しく洞察するために必要とされるあらゆる準備は、その領域に入る前に行われなければならないのです。なぜなら、一旦死の境界を越えてしまうと、もはや自分自身の認識を修正することはできず、むしろ自分自身の性格や性向に合致する間違いを犯してしまうことになるからです。

    人間の魂が、その将来において特定の間違いを犯さないようにするためには、この世の物質界に戻り、その性向を改善し、そして霊界に戻って以前よりも良い行いをしなければならないのです。このことから、私たちがこの世と霊界の境域を越える前に、健全かつ綿密な準備を行うことが重要であるとがわかるのです。

    いま、ここで述べたことは、私たち人類の進化の現在の周期と密接に関連しています。しかし、私たち人間の魂の条件は常に今日のような状態にあったわけではないのです。そしてこの時代において、私たちの魂が霊界に入った時に強烈な幻影の世界が現れることを歓迎するよりも、むしろそれを恐れるべきなのです。

    高次の霊的世界へと参入するための修行を始めると、確かに幻影体験が私たちの中に浸透していく可能性があるのです。そしてこの時代において、この幻影の世界の前で過ちを犯さないための唯一の防御策は、まず、これらの幻影から自分自身について学べることは限られていると、自分にそう言い聞かせることです。

    私たちの周りに現れる様々な幻影は、その必然として私たち自身の存在の反映に過ぎないものです。私たち自身の気質や魂の成熟度、私たちが考え感じるものすべてが、霊界においては客観的な現実に見える出来事へと変容するのです。

    例えば、アストラル界で客観的に見える出来事を見るとき、それは私たち自身の美徳や欠点の反映、あるいは頭痛や何かの不調の影響に過ぎないのかもしれないのです。

    真のイニシエーションを求める者は、つまり本当の霊界への参入を求める者は、特に現代においては、幻視の体験を通して到達するあらゆるものを思考によって理解しようと努めなければならないのです。したがって霊的世界への参入を望む者は、幻視が現れる世界で遭遇した事柄をこの物質世界を理解するのと同じように、それが全面的な理解に到達するまでその探求を決して止めてはならないのです。