天使は人間のアストラル体で何をしているのか? 4

天使の仕事の目的とその期限

ある種の霊的存在は、人間の発達と同時にその達成を通して自らの発達を遂げていきます。私たち人間のアストラル体に自分のイメージを作り出す天使たちも、これをゲームとしてではなく、それによって何かを達成するために行っているのです。

これらの本当の結果は人類の中に求められなければならないのであり、意識の魂を獲得した人間が故意にそれを無視すれば、この全てが無駄になってしまうことになります。そうなれば全てが遊びになり、天使たちは人間のアストラル体の発達においてゲームをしているだけだといことになるのです。これは、人類の中でその結果が実現することによってのみゲームではなく深い重要性を持った問題となります。このことから、天使の仕事はどんな状況においても真剣でなければならないものであるということが分かります。

私たち人間が単に眠気による無感覚によって、天使の活動を遊びにまで落とすことになったとしたら、存在の舞台裏に何が有るのかを考えてみてください。そして、もしその舞台裏にあるものが現実として起こったとしたら、どういうことになるのでしょうか? 

これは、私たち人類が将来の重要な霊的啓示に全く気づかないままでいるとしたらどうなるのか? ということなのです。

例えば、人々が宗教の自由に関する部分を気づかずに通り過ぎ、エーテル界でのゴルゴタの神秘の繰り返しやエーテル界でのキリストの再出現、その他の重要な事柄を見過ごしてしまうとしたら、もし人々がこれらの全てを失うとしたら、人間のアストラル体のイメージを通して達成されるべきことは、天使によって、別の方法で実現されなければならなくなるでしょう。

もし、人間が世界で起こっている物事に対して覚醒状態を保てず、アストラル体でなされるべきことを妨げるとしたら、眠っている人間の体を通して同じ結果に到達しようとする努力が天使によってなされることでしょう。

人間が目覚めている状態でありながら完全に気づかないままでいる物事について、それは睡眠中に天使が肉体とエーテル体の助けを借りて実行することになるでしょう。

そこでは、人間の目覚めている魂が、その体の中にいる時には達成できなかった効果を生み出すための力が求められるのです。これらのことに目覚めているべきである人間が自我とアストラル体とともに肉体とエーテル体の外にいる時、つまり睡眠中に、天使はその効果を誘発できるかもしれないのです。 これがこの意識の魂の時代における大きな危険なのです。

もし、人類が三千年期の始まりまでに霊的生活に向かわなければ、このようなことが起きるかもしれません。三千年期は二千年から始まるので、私たちはそれからほんのわずかな時間しか離れていないのです。(この講義が行われた、1918年のこの時点ではそうなるのです)天使たちのその働きの結果として行われるべきものは、目覚めている人類ではなく、眠っている人間の体の中に求めなければならなくなるかもしれないのです。

天使たちはそれを実現させるために、人間のアストラル体から全ての仕事を引き上げて、つまり神聖な理想のイメージの絵を描くことを辞めて、それをエーテル体に沈めざるを得なくなるかもしれないのです。

しかし、もしそうなれば、私たち人間はこの天使の働きに関与しないことになるのです。なぜなら、それは人間の意識がエーテル体から離れている間に達成されなければならないものだからです。そして人間が目覚めた状態でそこにいるとすれば、それを妨げるからです。

天使の仕事の変換とその危険性

もし、天使が人間の意識的な協力なしに、つまり睡眠中に人間の肉体とエーテル体を通してそのような働きをしなければならないとしたら、その結果はどうなるのでしょうか?

その時、人類の進化に対するその結果の影響は間違いなく三つに分かれることでしょう。

まず自我とアストラル体が存在しない人間の眠っている体には自由意志によって喚起されたものではなく、朝、目覚めた時にそこに存在することになる何かが生み出されることになります。

れは常に存在するものとなり、それは意識的な自由ではなくむしろ本能であり、したがって有害なもとなるのです。

そして、誕生、受胎、及び性生活全体の神秘に関して、人間の本性に入り込むことになる特定の本能的な知識は先に説明した危険な状況となり、本当に有害なものとなる恐れがあるのです。

つまり、それは特定の天使自身が変化を遂げる危険なのです。(これは守護霊が変化することを意味するものです)

この変化は、現在何も明らかにされていない秘儀の科学のより深い神秘に属するために、これについてはこれ以上言及することはできないのです。

しかし、人間の進化への影響は、性生活に関する特定の本能がはっきりと覚醒した意識の中で健全にではなく有害で破壊的な形で生じるようになるだろうと、そう言うことができるのです。これらの本能は単なる個人的な誤りではなく社会生活にまで及んで、この性生活が血に及ぼす影響を通じて、この地上で同胞愛を育むのを妨げるどころか同胞愛に反対するようになる状況を引き起こすことでしょう。これらは全て本能の問題なのです。

こうして右に曲がって用心深く警戒を続けるか、左に曲がって眠るのかの決定的な地点がやってきます。しかし後者の場合は恐ろしい本能が現れることでしょう。 この決定的な地点がパンデミックだったと思われるのです。

もしそのような本能が現れてきたとしたら自然科学者は何と言うのでしょうか?

彼らはそれは正常な発達であり人類の進化における避けられない段階だということでしょう。自然科学は人間にそのような危険を警告することはできません。なぜなら科学的見地からすれば、人間が天使になるか悪魔になるかは同じように説明できることだからです。どちらについても科学は同じことを言うことができます。後者は前者から派生しているものなのです。それは因果説明という偉大な知恵によって説明できるのです。

自然科学はここで話した出来事に全く気づかないことでしょう。なぜなら、人間が性本能によって半分悪魔になったとしても科学はそれを自然の必然とみなすからです。つまり、何が起ころうとも科学はそれを説明できるとみなすことでしょう。しかしこの事柄は科学的には説明できないものなのです。このようなことは超感覚的な認識による精神的な洞察を通してのみ理解されるものです。

これが、天使の活動によって生じる変化の最初の結果です。

人類の未来に待ち受けている価値観

私たち人類に対する天使の働きかけがアストラル体からエーテル体に以降することによって、つまり、睡眠状態に移行することによってもたらされる第二の結果は、人類に特定の治療法に関する本能的な知識をもたらすことでしょう。しかし、それは破壊的な知識だということなのです。物質的な意味では医学に関連する全てのものが大きな進歩を遂げることでしょう。

人々は特定の物質や組み合わせの治癒力について本能的な洞察力を持ち、この知識によって恐ろしい害を及ぼすことでしょう。しかしその害は有益であると言われることでしょう。

不健康なものは健康であると言われるでしょう。なぜなら、特定のプロセスが安楽な結果をもたらすことが発見されるからです。不健康な方向へ導く特定の方法は単に心地よいものだと感じられるようになるでしょう。

様々な段階の治癒力に関する知識は増えていくことでしょう。しかしそれらは有害な方向に向かうことになるでしょう。

なぜならある種の本能を通じて、様々な物質やその作用によって、どのような病気が引き起こされるかが発見されていくからです。そして人々は自分の利己心や自己中心性に応じて、病気を引き起こすか、そうしないかを決めることができるようになるでしょう。

私たち人類に対する天使の働きの変化がもたらす第三の結果は、人間が非常に特別な力を知ることであり、それによってわずかな刺激、つまり特定の振動の調和によって大きな機械的な力が世界に解き放たれるということです。

このようにして、機械的な性質を持つものの全てのメカニズムに対する一種の精神的指導が開発され、その技術全体が悪意のある方向に導かれることになります。しかしそれは人間のエゴイズムを過度に喜ばせそこで役立つことになるのです。これらは起こりうる展開の具体的な表明であり、私たち人類が置かれているこの状況は、非霊的な人生観では明確にできないことを理解している人々だけがこれを正当に理解できる人生観、存在観を持つことになるのです。

もし有害な薬が開発され、性本能のひどい異常が発現し、あるいは霊的な力を自然の力に適用することで世界機構に邪悪な原動力が生まれたとしても、非霊的な世界哲学はそれを見抜くことも、それらが真の道から逸脱していることに気付くこともできないでしょう。これは眠っている人が眠っている間は、盗みに来る泥棒が近づいてくるのに気づかないのと同じことなのです。朝、目覚めた時に、初めて何が起こったのかが分かるのです。そしてどんな恐ろしい目覚めが私たち人類を待ち受けているのかということなのです。

しかしこの目覚めがなければ、人間は医学的知識の拡大を誇り続け特定の性的異常に満足感を覚え、これらの誤りを超人的なもの、偏見のない心の広さとして称賛することでしょう。そこでは、醜さは美しく、美しさはある関係において醜いものとなり、これらの全てが自然な発達であると見做されることによって、ここで述べたことは気づかれないことでしょう。

しかし、それらは私たち人類の中にある人間の本質のために定められた道から逸脱することになるのです。

もし精神科学が、私たちの心と魂の態度全体に浸透する様子を、少しでも感じることができたのであれば、今日、ここで示されたような真実を受け入れるために必要とされる真剣さも身につけられるはずなのです。私たちはそこから精神科学のあらゆる側面と同様に、ある種の責任、人生の義務を認識することができます。

私たちの状況がどうであれ、私たちがこの世で何をしなければならないとしても、重要な点は、私たちの行動が人智学的な意識で満たされ照らされなければならないという、この考えを維持することなのです。