死後の人間の生命について- Ⅰ

概要

このテキストは、ルドルフ・シュタイナーの思想に基づき、私たち人間の死後の生命が、あの世である霊界をどのように生き、そして、この世に再び転生するまでの間にどのような意識体験をするのかを探求しています。

この探究においては、それを可能にするための透視能力の獲得が必要であり、霊界へ参入するために必要とされるその能力の獲得方法として、私たちの「内なる静けさの達成」が不可欠であるとしています。

さらに、霊界は現実の世界であり、そこでは、この世を生きた肉体である私たちの日常生活の意識が、逆転した世界として、つまり内面が外界として、外界が内面として現れることを指摘しています。

死後の人間である私たちは、霊界を生きる中で転生の時期に差し掛かります。しかし、それまでにも、霊界で自分の存在意識を失う危機に直面するのです。その危機に対して、何が、死後の私たち自身の存在の手助けになるのか、その重要な要素にも触れています。

1. 三つのテーマ

  • 精神世界への参入方法
  • 死後の世界の現実性
  • 人類の進化におけるゴルゴタの秘蹟の重要性

精神世界の探求においては、つまり透視能力の獲得における実際の霊界の探究においては、私たちのこの世の意識が日常生活のあらゆる感情から離れ、「内なる静けさ」を達成することが前提条件として挙げられています。

そして、この「内なる静けさ」をもって獲得された、その透視能力で体験される精神世界は、つまり死後の世界は、「現実の世界と同じ」でありそこは、地上の記憶を「幻視」として追体験的に実感するカマロカの世界として、そのイメージ自体が知覚体験になる世界です。

あの世である霊界において、死後の人間である私たちは、地上の記憶を徐々に失っていきます。それは自分という存在意識を失うことでもあります。霊界で地上の記憶を失う可能性に晒される私たちは、それを維持するために、道徳性と宗教性の必要に向かい合います。そして、最終的に、霊界での死後の人間の意識を維持させるものが、「ゴルゴタの秘蹟」という宇宙的な出来事、であるということに行き当たります。「ゴルゴタの秘蹟への理解」は、死後の生命である私たち人間が、次の転生に至るまでの間にこそ必要なものであり、この理解が、霊界の真夜中であるこの領域で、人間の意識を再活性化する決定的な衝動となっているということが強調されています。

2. 主要な概念

2-1:精神的霊界知識(霊界情報)の獲得について

• 透視能力の前提条件

精神世界に参入し、その経験を理解するためには、透視能力た必要であり、そのためには魂の「完全な内なる静けさ」と「不動性」が不可欠となります。私たちのこの世の日常生活における「魂の絶え間ない落ち着きのなさ」は、精神的探求には反してます。したがって、日常生活の不安、興奮、心配、外的な関心を能動的に排除することが求められるのです。これを瞑想と捉えても間違いではありません。私たちの精神世界での探求には、魂の完全な内なる静けさと不動性が必要なのです。

• 霊界での認識の性質と困難

精神世界(霊界)では、外側の現象が「私たちの方へ」「私たちの内面へ」来なければならず、この世の物理世界のように、自分が現象に接近してそれを認識することとは異なるのです。霊界に参入すると、それが透視であれ、死後であれ、自分自身の「性格や傾向」がその認識に影響を与えるために、そこでの間違いを正すことができません。そのために、事前の「健全かつ注意深い準備が極めて重要となるのです。「精神世界(あの世)では、一度その閾値を超えると、私たちの認識を修正したり、間違いを正したりすることはできないのです」

• 幻視体験の危険性と自己反映性

現代において、幻視世界が強制的に出現することは危険視されます。幻視はしばしば「私たち自身の内面、思考、感情、特性、さらには身体的な状態(頭痛など)を反映」する「私たち自身の存在の鏡」であると認識することが重要です。真の探求者にとっては、幻視体験を思考によって理解することが不可欠です。

2-2:死後と転生の間の人間の生命

• 死後の世界の現実性

死後の世界は「絶対現実の世界」として特徴づけられ、地球上でのつながりも持続されています。つまり、地上世界とは地球であり、霊界とは内的な宇宙空間のことなのです。しかし、霊界では物理的な肉体感覚がないために、死後の人間の知覚は「幻視」を通して伝達されます。幻視として現れるイメージが現実の知覚となるのです。私たちが、あの世で出会う他者との最初の幻視は、私たち自身がその人に抱いていた「愛情や嫌悪の感情といった地上の関係性」をそのまま反映したものになります。死後の人間は現実であった地上生活の自分の内面性を、継続する事実として五感的な知覚活動において生きるのです。

• 感情の限界と苦痛

死後の人間のこの知覚活動は、地上の感情の限界として、例えば、その人を十分に愛せなかったことを感じたとしても、それを修正することができず、そのことが自分の魂にとっての「強大な重荷」として、大きな無力感と悔恨として経験されることになります。これは、地球上での自分自身の感情の不完全さを自覚することで生じるものです。

• 意識の変容とヒエラルキーの影響

死後の霊界での時間が経つにつれて、「高次の霊的存在」が、死後の私たちの周囲を取り囲んでいる「幻視の霧」に作用し、それらを「照らし」私たちの意識の変容を助けます。言い換えれば、この時期が来るまで、死後の人間は地上の自分自身であったものに取り囲まれているのです。

• 道徳と意識の維持

死後の人間となった私たちが、霊界で明晰な意識を保つたえには、「道徳的な強さ」が不可欠となります。なぜなら、「道徳的な意識は、人間の魂を高次の霊的存在が放つ光にたいして、開かれた状態に保つからである」もし、道徳心が著しく欠如した不道徳な意識の人間であったとすれば、その人自身が、高次の霊的存在が放つ光を閉ざし、「薄暗い黄昏」の中に身を置き、意識の不明という「恐ろしい恐怖の状態」陥ることにつながるのです。この世の地上世界で道徳的に生きることは、その道徳的な強さは、私たちが死後の世界で明晰で輝く意識を維持するために不可欠な力なのです。

• 宗教的思考と唯物論的思考の対比

霊界の後期の段階においては、宗教的思考が、私たち人間の意識を維持することにおいて重要なものとなります。これは、霊界がこの世の宇宙空間の内的な領域であることからすれば、霊界の広域、つまり高次の段階とその領域は、より神聖な性質となるために、それが必要となるのです。その一方で、唯物論的思考は意識の「薄暗がり」を招くことになります。それは地球においてのみ有効であり、本来の霊的な存在である人間の魂の進化にとっては不利なものとなるのです。

• 死後の霊界の三つの領域

死後の霊界を生きる人間の意識は、まず霊界の始めの領域で、記憶の幻視による地上の知覚体験をします。つまり地上生活の総括をするのです。その後「高次の霊的存在」が放つ光によって自分の魂の変容に取り組むのですが、そこで必要となるのが「道徳意識」、または「道徳的原則」でした。それが無ければ「高次の霊的存在の光」を受け取ることが困難だからです。これが霊界の第一の領域です。

死後の人間である私たちは、さらに霊界を生きる中で「宗教的精神」、または「宗教的思考」が必要になります。これは霊界のさらなる領域がそのような資質を帯びているからです。もし、死後の人間がこの宗教的精神を保持することができなければ、霊界この時点で、その人の存在意識は消滅してしまうことになります。これがの霊界の第二の領域です。

そして霊界の第三の領域では、すべての死後の人間の存在意識が消滅してしまいます。この人間の意識の消滅は、地上に降りた神霊存在であるキリストが出現するまで続きました。それは、「地球の始まりから人間に与えられていた特定の精神的力が、秘儀参入者のその賢明な導きによって維持されいたその力が、終焉を迎えたために起こったことです」

しかし、ゴルゴダの秘蹟が起こったことで、つまり宇宙的神霊であるキリストが地上で死を経験したことで、この領域に光がもたらされてのです。

ゴルゴタの秘蹟は、「人間の死後と転生の間の、特にその中間期間における人間の意識を再活性化できる決定的な衝動」となったのです。つまり、ゴルゴダの秘蹟は「人間が失っていた古代の精神的遺産」を取り戻すために必要なことだったのです。

• ゴルゴタの秘蹟への理解

ゴルゴタの秘蹟の理解は、霊界の第三の領域で死後の人間が意識を維持するために不可欠なことです。パウロの「私ではなく、私の中のキリストである」という言葉は、現代人である私たちが抱く「私の中の私」という利己主義と対比するものであり、私たちの利己主義は死後の意識の維持を困難にするものとなります。

死後の第三の領域で、ゴルゴタの秘蹟を理解することで得られた地上の記憶は、私たち人間の死後の意識を維持させ、その後の人間の生命における「カルマの過ちを修正」する上で非常に重要なものとなります。この理解から得られる思考と力は、死後の私たち人間の魂を「意識の深淵」を越えて導くものとなるのです。なぜなら、ゴルゴダの秘蹟は、地球で顕在化した宇宙法則とも言えるものだからです。

私たち人間は神から生まれました。この「我々は神から生まれた」という言葉の真の深みは、ゴルゴダの秘蹟を理解した死後の霊界の第三領域で、つまり死と転生の間の「中間期間」で、言うなれば「霊界の真夜中」で、本当の意味で経験されることになります。

• ゴルゴタの秘蹟の客観性

ここで述べられた「ゴルゴタの秘蹟」の重要性は、宗派的キリスト教に対する偏重ではなく、客観的な「オカルト的現実」として提示されるものです。つまり、これは霊界における真実の開示であり、地上のいかなるキリスト教派への加担ではないのです。

これは、例えば、科学におけるコペルニクス体系が地上の宗教を超えて受け入れられているのと同じように、霊的な科学として、そうなるべきものなのです。地上のキリスト教以外の他の宗教も、人類史において、最終的にはこの事実を受け入れることになるでしょう。

死後の人間にとって「ゴルゴタの秘蹟」が重要であることは主張されなければならないものです。なぜなら、その理解のみが、死後の人間の意識の消滅を回避できる、その法則への融合だからです。したがって、この主張は客観的な『オカルト的現実』として提示されているものであり、地上のキリスト教宗派に対する偏重であると誤解される可能性があるとしても、決してそうではないのです。

このような主張をする霊的科学の目的は、好奇心や抽象的な知識欲を満たすためではなく、私たち人間の魂に「必要な滋養」を提供するために研究されるものです。ゴルゴタの秘蹟の理解は、この目的に貢献し、私たちの死後の霊界での課題を克服するために魂を導くのです。

2-3: 結論

精神世界(霊界)への探究には内的な準備が不可欠であること、その準備を通して透視能力が得られること、そして死後の世界は単なる消滅ではなく、意識の変容とカルマの修正の場であること、特にゴルゴタの秘蹟が現代の人間の死後における意識維持に決定的な役割を果たしていることが述べられています。これらの霊的な知見は抽象的な知識ではなく、人間の魂に「必要な滋養」を与える「オカルト的現実」として認識されるべきものです。

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