「引き寄せ」を超えて・シュタイナーのカルマ論と霊的存在の構造|

引き寄せの構造①:人間は何によって世界と結びつくか。

僕たちが「私」という独立した不可侵の個体としてこの世界に立ち、外部の世界と対峙するためには、「反感」という心理的・生理的なメカニズムがどうしても不可欠であるという、一見すると不条理にも思える洞察に向き合わなければならない。通常、反感という言葉は日常会話のなかでは不快感やネガティブな感情の歪みとして忌避されがちだ。しかし人間認識の真理においては、この反感という力がその底に存在しなければ、僕たちは「私」という個性の境界線を描くことすらできないのだ。世界と自分自身を適切に切り離し、客観的な視界を獲得するための防波堤として、この無意識の反感は静かに機能している。

僕たちが日常で物事を見つめ、認識を成立させているプロセスの根底には、実はこの反感が潜在している。もしも人間の眼球に神経活動のみが存在し、冷徹な認識の力だけが世界を支配していたとしたら、僕たちが視線を取り交わすあらゆる対象は絶対的な嫌悪の対象となり、世界は耐え難い反感の嵐で埋め尽くされてしまうだろう。しかし現実には、そこに血流という意志の力、つまり「同感」の熱量が注ぎ込まれている。ゲーテがその著書『色彩論』の生理的視覚論において深く捉えたように、繊細な色彩のニュアンスに触れるとき、僕たちの感覚器官には同感と反感のダイナミックな相克と均衡が立ち現れているのだ。神経由来の反感と血流由来の同感が互いを相殺し合い、意識の表面で完全な釣合いを保つことによって初めて、僕たちは嫌悪感に苛まれることなく、世界を客観的かつ中立的に見つめるという透明な視覚を獲得している。

この人間における均衡のドラマは、動物の器官構造と比較したときに一層の鮮明さをもって浮かび上がってくる。動物の眼構造を観察すると、そこには人間よりもはるかに過剰で濃厚な血流活動が存在していることがわかる。特定の動物の眼に見られる「剣状突起」や「扇」と呼ばれる特殊な血管器官は、彼らの感覚器官が血流、すなわち同感の力によって圧倒的に支配されていることの物理的な証明にほかならない。動物は感覚を通じて環境と強く結びつき、世界と同感のなかで未分離のまま融合している。そのため動物は、気候や季節の変化といった外部環境に対して極めて強い依存関係を見せることになるのだ。それに対して人間は、あえて感覚の奥底に「無意識の反感」を保持することによって、環境との安易な一体化を拒絶し、世界から自らを引き剥がしている。僕たちが「私」という個別のパーソナリティを自覚し得るのは、意識の閾値の下にこの反感という名の防波堤をしっかりと築き上げているからにほかならない。僕たちは環境と同化しないことによって、初めて一個人として確立される。

通常、この認識における反感は意識の下層に沈潜しているため、僕たちがそれを直接感知することはない。しかし、外部からの刺激が特定の限度を超えて激化するとき、その反感は意識の閾値を突き破り、「嫌悪感」という明確な生理的反応として表面化する。悪臭の漂う場所へ足を踏み入れたときに僕たちが覚える不快感や吐き気は、特別な異常事態ではなく、あらゆる感覚活動の根底で常に起きている微細な反感のプロセスが、ただ単に増幅されて意識の上に跳ね上がってきた状態に過ぎない。僕たちは日常のあらゆる瞬間に、この嫌悪の萌芽を同感の力で中和しながら、静かに世界を認識している。


さらに、この反感と同感の力学は、人間の道徳的な成長や教育のプロセスにおいても決定的な役割を果たしている。生まれたばかりの子供は、あらゆる振る舞いや無邪気な戯れを、世界に対する純粋で強烈な「同感」と愛、そして本能的な意志の力によって行う。しかし、この子供特有の本能的な同感のまま成長を遂げるならば、人間は単なる動物的なインパルスに従う存在にとどまってしまうだろう。ここに「道徳的理想」という名の思考の光を注入していく必要がある。道徳的理想とは、本能的な動物性に対して「反感」を注ぎ込む行為であり、ある種の禁欲的・自己克服的な訓練を意味している。子供の純粋な戯れという同感に、思考に裏打ちされた道徳的理想という反感を交差させることで、人間は動物的な本能の殻を脱ぎ捨て、真の道徳的精神を獲得した個人へと変貌していくのだ。思考と意志の背後に隠されたこの反感と同感の交織するドラマは、認識と行動という両極に挟まれた、いまだ不確定で揺らぐ領域である「感情」の空間へ、新しい光を投げかけることになる

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