思考は現実を作るか①:思考は宇宙の中に存在する

第四世紀の静かな地殻変動と「僕たち」の思想という錯覚
僕たちはよく「自分が頭の中で考えたこと」として思考を所有していると思い込んでいる。自分はある日の午後、静かなカフェの窓辺で思いついたアイディアや、夜遅くにノートに書き付けた深い省察は、すべて自分自身の頭脳という孤立した部屋のなかで生み出されたものだと固く信じ切っている。近代という時代が僕たちに植え付けたいわゆる啓蒙思想は、思考とは人間の頭格の中に閉じ込められた個人的な産物に過ぎないという強い前提を僕たちに抱かせてきた。
しかし、そうした見方は、実のところ壮大な錯覚に過ぎないのかもしれない。グラスに入った冷たい水を一口飲んで喉を潤すとき、その水が自分の舌の上で自然発生したのだと考える人間はどこにもいないはずだ。水はグラスから口の中へ注ぎ込まれたのであり、舌はその水を受け止めた器に過ぎない。思考というものも、それとまったく同じ構造を持っているのだ。思想や思考とは、もともと僕たちの頭の中で作られるものではなく、宇宙の空間全体に満ちあふれ、世界を動かしている客観的な力そのものなのだ。僕たちの思考器官は、宇宙という巨大な貯水池に漂っている思想の力にアクセスし、それを一時的に汲み上げているに過ぎない。
そして何より重要なのは、それらの宇宙的な思想は決して無風の空間を気ままに漂っているわけではなく、つねに何らかの超感覚的な存在者たちによって担われ、働かされているという事実だ。さらに驚くべきことに、その思考を担う存在者たちは、人間史の歴史のなかでずっと同じであったわけではない。
超感覚的な探求が明らかにする事実によれば、西暦四世紀という時代を迎えるまで、人間が世界を理解するために用いていた思考は、能天使、すなわち「形姿の力」と呼ばれる高次の階層に属する神的な存在者たちによって担われ、宇宙全体へと注ぎ出されていた。
古代ギリシャの人間が、もし神秘劇の参入儀礼などを通じて自らの思想の起源を辿ろうとしたなら、彼はこう証言したはずだ。自分は宇宙の知性の担い手であり、宇宙の思想の流出元である「形姿の力」の存在を直接的に知覚している、と。当時のギリシャ人にとって、思考とは自らの頭の中でひそかに捏造するものではなく、外的な事物から客観的に射し込んでくる光のようなものだった。僕たちが今日、目の前にあるリンゴを見て「赤色」を感じ取ったり、空を見上げて「青色」を感じ取ったりするのとまったく同じ自然さで、古代人は事物から放たれる「思想」を客観的な事実として感じ取っていたのだ。あるいは、嬰ハ音やト音といった特定の音が耳に飛び込んでくるように、思想もまた世界から客観的に僕たちの魂へと届いていた。エクスシアイたちは、自らの四肢から光り輝く思考の力を放出し、それが宇宙の出来事の中へと流れ込んで世界を創造的に動かしている様を、古代の参入者は一種の霊的な象徴として直接的に目撃していたのだ。
ところが、西暦四世紀という歴史の曲がり角において、超感覚的な世界の中で極めて重大な宇宙的事象が勃発した。それまで宇宙の思考を担ってきた形姿の力が、その思考の力を、より人間に近い階層である始原の力、すなわち権天使へと譲り渡したのだ。
この歴史的大転換によって、エクスシアイの役割は外的な感覚世界の制御へと退くことになった。彼らは色彩や音覚といった、僕たちの目の前に織り上げられる感覚界の織物そのものを支配する側に回り、代わってアルカイと思想の役割を分かち合うようになった。この宇宙的な事件はもちろん一夜にして完了したわけではない。紀元前の昔から気の遠くなるような長い時間をかけて準備され、西暦四世紀をその中央の決定的な転換点としつつ、十二世紀、十三世紀、十四世紀という中世の後期に至るまで、何世紀にもわたって徐々に進行していった地殻変動だった。
この超感覚的世界における引き継ぎが完了したとき、僕たち人間の意識には劇的な変化が訪れた。アルカイは、エクスシアイよりも人間に一歩近い階層に位置している。具体的に言えば、天使(アンゲロイ)、大天使(アルヒアンゲロイ)、権天使(アルカイ)の三つの階層は、人間と感覚印象とのあいだ、いわば僕たちのすぐ目の前に存在している。一方で、能天使(エクスシアイ)、力天使(デュナミス)、主天使(キュリオテテス)といった階層は、感覚の織物の向こう側、奥深くに隠れているのだ。
思考の担い手がエクスシアイからアルカイへと移行したことによって、思考はより人間に近い場所へと降りてきた。僕たちは思想とのコミュニケーションをより自由に、より身近に行えるようになった。しかし、それと引き換えに、僕たちは大きな代償を払うことになった。思想があまりにも自分の近くにまで接近してきたために、僕たちは「自分自身の手で思想を作り出しているのだ」という強力な錯覚を抱くようになったのだ。かつてギリシャ人が外の世界に輝く客観的な光として受け取っていた思想は、僕たちの頭郭の中に閉じ込められ、僕たち個人のちっぽけな所有物へと収縮してしまった。
この錯覚こそが、近現代におけるデカルト的な自我の孤立や、近代啓蒙思想がもたらした強固な自己中心性の正体にほかならない。僕たちは世界から思想を汲み上げているにもかかわらず、それを自室で作られた私有物だと思い込むことで、宇宙とのつながりを自ら断ち切り、孤独な個の中に閉じこもってしまったのだ。そして、この「外から内へ」という意識の収縮と孤立化のドラマは、僕たちが音楽の「音程」をどのように聴いてきたかという歴史のなかにも、正確かつ残酷なまでに刻み付けられている。
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