4,146語、読了時間22分。
ゴルゴダの秘蹟・キリストの死を理解することの意味
現代において、人間の魂の本質を理解しようとするのであれば、人間の本性の最も深淵な部分が、今日では自我の認識にまで到達し得ることを理解しなければならないのです。
このような理解はかつては不可能でした。しかし人間全般において、自我へのこの接近は、最も粗野な形態のエゴイズムとして見受けられるのです。それは様々な程度で現れ、最終的には哲学者の段階に達します。人々が現代哲学を学ぶと、人間の自我について語られることによってのみ、確固たる立場が得られることが分かるのです。
キリスト教以前の時代、人間は世界についての認識を得ようと試みるとき、外的な現象に目を向けました。言い換えれば、哲学するために自分の外へ出て行ったのです。
今日、人間は内面、つまり自分自身を見つめて、そこで自我を見出した時にのみ確固たる参照点に出会うのです。このことは、偉大な哲学者であるフィヒテとベルクソンを挙げるだけで十分でしょう。
二人はいずれも、人間は自我を発見することによってのみ、ある程度の内なる平和を見出すことができるという点で一致しています。その理由は、かつて人類が自らの力によって自我を認識することができなかったことにあるのです。
この自我の発見という経験は、ギリシャ・ラテン時代にゴルゴタの秘跡を通して人類に与えられました。キリストは、人類に神の火花が人間の魂の中に宿っているという確信を与えたのです。
それは、肉体的な意味で人間となっただけでなく、キリスト教的な意味で肉体となった人間、つまり「私」となった人間、「私という自我意識となった人間」の中に生き続けているのです。
私たち人間の個性、すなわちキリストの中に神を見出す可能性は、現代においてますます曖昧になっています。これは、現代人がますます個人的な自我に浸り、自分自身の中に神の火花を見出そうと努めているからです。
19世紀には、このような自我観が強まり、キリストの神性が否定されるまでに至ったことを私たちは見てきました。神は人類全体にとって抽象的なものとしてのみ理解されるようになったのです。
例えば、ドイツのある哲学者は、歴史上のキリストを、人間の個性の象徴としてとして一人だけ認めるのではなく、全人類を活気づける神性を認めるべきだと主張しました。
そうすると、復活は、神の霊の覚醒として全人類に現れるものだけを意味することになるのです。人間が自らの内に神性を求めれば求めるほど、ゴルゴタの秘儀への理解を失っていくのはこのためなのです。
現代思想の全体的な傾向は、神の反映をもっぱら人間に求めることにあります。このため、神が一人の人格の中に受肉したという認識を阻む要素がますます大きくなっていくのです。この認識は、死と新たな生との間の人生の中で実際的な影響をもたらすことになるのです。
ギリシャ・ラテン時代にも、人間は死後の第三期において自らの力だけでは意識を維持することができなくなっていました。そして現代においては、一般的かつ哲学的な利己主義が蔓延しているために、なおさら困難になっているのです。
現代における死後の第三期では、人間の魂は、ギリシャ・ラテン時代の人間よりもさらに大きな障害を自らの幻視の雲の中に作り出すことになります。
近代における人類の進化を偏見なく考察するのであれば、聖パウロの言葉「私ではなく、私の内にいるキリスト」を認めざるを得ないのです。
しかし現代人は、「私は私の内にあり、キリストは私が認める限りにおいて存在する。キリストは私が自分の理性によって認めることができる限りにおいてのみその価値を持つのだ」と言うのです。
現在のこの世において、死後の第三段階で明晰な意識を維持する唯一の方法は、前世の特定の記憶を死後も持ち続けることだけなのです。実際、この期間中、私たちは特定の記憶を一つでも保持できなければ、すべてを忘れ去らなければならないのです。
もし、私たちが地上でキリストとゴルゴタの秘跡を理解し、それらと関係を築いていたとすれば、それは死後のこの期間において、私たちの意識を維持するための思考とその力を、私たちの中に植え付けてくれるのです。
この事実は、ゴルゴタの秘跡に関して、地上で理解したものを死後も思い出せる可能性があることを明確に示しているものです。
霊界でカルマを改善できる可能性を生きるために知るべきこと
ゴルゴタの秘儀についての考えや感覚を一度得ることができれば、死後もそれらを、そして、それらに関連する事柄も思い出すことができるでしょう。言い換えれば、死後、私たちは自分の意識を深淵を越えて運ばなければならないのです。
これは、地上で得たゴルゴタの秘儀の理解によって行われます。この期間に記憶から得た知識によって、私たちはカルマの結果として自らの魂に負っている欠陥を正すために協力することができるのです。
しかし、「私ではなく、私の中のキリスト」という言葉の理解と深い悟りを育んでいなければ、私たちの意識は消滅し、カルマを改善する可能性も失われるのです。私たちのカルマに応じて、私たちが正すべき欠陥の修正は、他の力によって担わなければならないのです。
当然のことながら、すべての人は新たな誕生を経て地上に還りますが、意識が消滅したか、それとも深淵を越えたところで無傷のまま残っていたかは重要なことなのです。死後、この段階に至った時にゴルゴタの秘儀を理解していたとすれば、自分の過去を振り返り、私たちの中にある本質的な人間性すのべてにおいて、私たちが神から来たことを思い出すことができるのです。
また、ゴルゴタの秘儀を理解したことによって、自分の意識を救うことができたこと、そして今、私たちに近づいてくるその霊を目の当たりにしながら、意識をさらに発展させることができることを経験することでしょう。
そしてこの死後のこの第三段階において、私たちは「神から生まれた」という、霊によって生まれたことを思い出すことで、それを自らに言い聞かせることができる地点に到達するのです。
特定の段階の秘儀参入を受けた人は、「私は神の霊によって生まれた」という言葉の真実を、この特定の地点に、自らを移行させた時ほど力強く体験することはないのです。この瞬間、ゴルゴタの秘儀を理解したすべての魂がそれを体験するのです。
私たちは神から生まれました。という言葉の意味は、魂が死と再生の間の中間期に達したときにのみ、その言葉の真髄が体験されるということを知れば、ここで言っていることが理解できるのです。
これらの事実を客観的に知るとき、この言葉の本質はそのようにしか理解できないということを、この世のもっと多くの人々に知ってほしいと、この理解において誰もがそう思うでしょう。
この言葉は、まさに死と新たな誕生の間に、つまり霊界を生きる間に、人間の魂の中に生きるべきであるものを目覚めさせるために、私たちの霊的薔薇十字団のモットーとなっているのです。
しかし、この説明を、キリスト教的生き方を支持する先入観と解釈することは難しくないでしょう。もしそう捉えるのであれば、そのような見解は全く人智学的なものではないのです。精神科学は、あらゆる宗教的信条に対して客観的な立場を取り、それらに等しく関心を持って研究しています。
ゴルゴタの秘儀の重要性についてここで示された事実は、いかなる形態のキリスト教宗派とも全く関係がないのです。これは単に客観的なオカルト的現実です。それにもかかわらず、私たちの西洋精神運動は、他の宗教と比較して、キリスト教を著しく優遇していると非難されてきました。
しかし、ここでは、ゴルゴタの秘儀は自然科学におけるあらゆる具体的事実と同様に扱われています。他の宗教はこの事実を認めることができないという理由で、ゴルゴタの秘儀を、人類の進化における特異な出来事として位置づけるべきではないと言うのは、全くの誤解なのです。
ここで、次の点を考えてみましょう。今日、私たちはインドの聖典と近代西洋の世界観を持っています。今日、西洋ではコペルニクス理論を教えていますが、インドの聖典にコペルニクス理論が含まれていないからといって、それを教えるべきではないと主張する人はいません。したがって同じ理由で、ゴルゴタの秘儀の教えに異議を唱える人もいません。なぜなら、それは古代ヒンズー教徒の宗教的文献に見出せないからです。
このことからすれば、ゴルゴタの秘儀について、ここで述べられている説明がキリスト教への偏愛から来ているという非難が、いかに根拠のないものかが理解できるのです。私たちは客観的な事実に関心を抱いています。もしあなたが、なぜゴルゴタの秘儀の重要性を少しでも変えないのかと問うのであれば、上記の理由が答えとなるでしょう。
私たちは、好奇心や抽象的な知識欲のために霊的科学を学ぶのではなく、魂に必要な栄養を与えるために学ぶのです。ゴルゴタの秘儀を理解することで、私たちは人間の魂に、死と再生の間の深淵を渡るために必要な感情を育む、その可能性を与えるのです。
死後、人間の魂は意識を失う可能性があり、それは将来のあらゆる周期において耐え難い重荷となることを理解した人は、ゴルゴタの秘儀を同胞に理解させるために、あらゆる機会を求めることでしょう。
このため、ゴルゴタの神秘を理解することは、霊的科学の研究を通じて、私たちが学ばなければならない最も重要な事実の一つなのです。
現代において、私たちが進歩を遂げるほど、様々な宗教はここで私たちが提示した事実を受け入れざるを得なくなることでしょう。中国、仏教、そしてバラモン教の信者たちは、ゴルゴタの秘儀を受け入れることは、コペルニクスの理論を受け入れることと同じくらい、自分たちの宗教に反するものではないことに気づく時が来るでしょう。
将来、キリスト教以外の宗教がこの事実を認めないのであれば、それは一種の宗教的利己主義とみなされることでしょう。私たちは、ここで死と再生の間の条件という出発点から進んで行ったにもかかわらず、その考察の中でゴルゴタの神秘に到達したことに気づいていただけたと思います。