sebata’s blog

  • 天使は人間のアストラル体で何をしているのか? ⑸

    人類の進化のために超えるべき価値観


    今、生きているこの世の人生について考える人々が、いくつかのことに気づいていないとすれば、それは確かに眠っているに違いないのです。特に近年、人々はいかに効率化を自慢してきたことでしょう。

    この人々は、観念、精神、霊的領域を最も軽視する人物が、今や全ての責任ある地位を占めるようにしてきたのです。そして人類が実際に奈落の底に引きずり込まれない限り、この人生において効率化について熱弁を振るい続けることができるでしょう。

    ちょうど今、少数の人々がほとんどの場合本能的に新しい時代が始まらなければならない、それが宇宙であれ、宇宙人であれ、別の星であれ、あらゆる種類の新しい理想が生まれなければならないと小さな声をあげ始めています。しかし、それは小さな声に過ぎないのです。

    そして、これらの声が精神科学の生活に意識的に適応することなく本能としてのみ現れるとすれば、そこで霊的な基盤と真理が欠けているとすれば、それは有益な進化への意向ではなく、覚醒状態で経験されるべきものの対価に繋がることになるでしょう。つまりお金につながることでしょう。

    馴染みのある表現で人々に訴えかける人は、音響的には依然として成功するかもしれません。しかし現在の混沌から社会的な宇宙が再び出現するためには、人々は他の言葉に慣れない表現に耐えなければならないのです。

    どの時代でも目覚めるべき人々が目覚めず、何をすべきかを認識しなければ、本物であることは何も起こらず前の時代の亡霊がさまよい歩くだけなのです。

    多くの宗教組織では過去の亡霊がさまよい歩き、私たちの法制度は古代ローマの亡霊に今も悩まされているのです。意識の魂を発展させるこの時代において精神科学は人々をこの束縛から解放し霊的な事実の実際の観察に導くことが仕事なのです。

    そこで馴染みのある表現をもって人々に訴えかける者は音響的には依然として成功するかもしれません。しかし彼らの発言は古い亡霊のような霊能力に束縛されていて、この時代に必要とされる霊的な基盤と真理が欠けているです。

    この現在の世界の混沌から社会的な宇宙が再び出現するためには、その発信を受け取る人々は、馴染みのない他の言葉に慣れない表現に耐えなければならないのです。なぜなら、どの時代でも目覚めるべき人々が目覚めず、何をすべきかを認識しなければ、本物であることは何も起こらず前の時代の亡霊がさまよい歩くだけだからです。

    1999年までに人類がしなければならなかったこと


    天使は私たちのアストラル体で何をしているのでしょうか?

    天使などについて理論化することはせいぜい始まりに過ぎません。人類の進歩については、私たち自身のこの時代に関して、そして最も直接的に私たちに関係する質問に答えるというとの両方において、その事実に基づいて話すことが必要なのです。

    天使が私たちのアストラル体で呼び起こすイメージは、意識の魂を通じて現実化されなければならないものであり、それは私たちの将来の状態を決定するものであるために、私たちにとって重要なものなのです。

    もし私たちに人間に意識の魂がなかったとしたら、私たちは悩む必要はないでしょう。なぜなら他の霊魂、他の霊的階層の存在が人間の中に入り込んで、天使が織りなすものを完成させるからです。しかし人間は意識の魂を発達させなければならないので、他の霊魂が介入して天使の仕事を実現させることはないのです。

    もちろんエジプトの時代にも様々な天使がこれらの作業を行っていました。しかしすぐに他の霊的存在が入り込み、人間にとってはその先祖返りした古い透視の意識によってそれが暗くなったのです。  

    こうして人間は古い透視で見たものに基づいて、その天使の絵の上に、つまり自分の魂のイメージの上に小さな声のベールを覆ったのです。しかし、今や私たち人間自身がそのベールの覆いを脱ぐ時なのです。したがって三千年期の直前が終了する期間の中で、つまり1999年の終わりまでに、意識生活にもたらされるものを眠りこけることによって見逃してはならないのです。

    私たちは人智学的な精神科学からあらゆる種類の教義だけではなく、自分自身の決意も抽出すべきなのです。そうすれば、これらは私たちに覚醒する力を与えてくれます。私たちは覚醒した人間であることに慣れることができます。私たちは多くのことに注意を払うことができるようになるのです。

    そうなれば、すぐにでも用心深くなり、人生で奇跡が起こらない日はないということを発見することができるようになり、そしてこの発言を逆にすることもできるようになります。つまり、こう表現することもできるようになるのです。

    ある一日において、自分の経験に素晴らしいことが何も見つからないとしたら、単にそれを見落としているだけでなのです。

    夜、自分の人生を振り返ってみてください。そこには様々な状況における大小様々な出来事が見つかることでしょう。そしてその中で、これは私の人生にとても不思議な形で現れ、全く普通ではない形で達成されたものだと自分に言い聞かせることができる出来事を見つけることでしょう。

    十分に包括的に考えその出来事の関連性に魂の目を向ければ、この発見に至ることでしょう。しかし日常生活ではこのようなことが行われないのです。なぜなら人々はそのようなことを自問しないからです。

    私たちはもしそれが起こっていたら、私たちの生活を完全に変えていたであろうこと、それが防がれた事柄について考えることをほとんどしないのです。何らかの方法で取り除かれたこれらの事柄の背後に覚醒の教訓となる多くのものがあるのです。

    今日、私に何が起きていたのだろうか? 毎晩この質問を自分に問いかけ、それからこの結果やあの結果をもたらしたかもしれない個々の状況について考えてみると、そのような質問には用心深さと自己規律につながる反省が伴うことでしょう。

    これは一旦始めると、私たちをどんどん先へと導いてくれるものであり、そしてついに、例えばある朝、十時半に外出しようとしたのに、最後の瞬間に誰かがやってきて私たちを引き止めたという事実が、何を意味するのかをもはや突き止めようとはしなくなるのです。

    それ以前であれば、遅れたことに腹を立てたとしても、もし予定通りに行っていたらどうなっていたかは問わなかったのです。この遅れによって何が変わったのでしょうか?

    私たちの生活における否定的な事柄の観察から、しかしそれが私たちを導く知恵の雄弁な証言であるものから、私たちのアストラル体の中で織りなされそこで働いている天使の観察に至るまで、その直接的な道、非常に直接的な道があり、その道に、私たちは安全に従うことができるのです。