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死後の霊界で意識が薄れていく理由
ヒエラルキーの影響、つまり時の流れの中でもたらされるこの霊的な階層の光もまた徐々に変化していきます。それは、より高次のヒエラルキーの光が入り込むことで、いかに私たちの意識が薄れていくのかを、私たちが少しずつ経験するような形で変化していくのです。
そして、この状況において私たちの意識が保たれるかどうかは、死ぬ前に起こった特定の出来事にかかっていることに気づいていくのです。
例えば、不道徳な魂の性質を持つ人の意識はより容易に薄れてしまいます。したがって、道徳的な強さを持って死の境界を越えることが極めて重要なことなのです。
なぜなら、道徳的な意識は、私たちの魂を高次の霊的階層の光に開かれたままにしてくれるからです。道徳的な感情を持つ人と不道徳な魂の性質を持つ人との死後の状態を調べてみると、道徳的な魂の性質を持つ人は死後も澄み切った輝かしい意識を保つことができるのに対し、不道徳な魂の性質を持つ人は一種の薄暗い、薄明かりのような意識に沈んでしまうことが分かるのです。
死後、ある人がそのような眠りの意識に陥ったとして、その何が問題なのかと問う人もいることでしょう。なぜなら、意識が薄くなれば苦しみから逃れられるのであり、その不道徳の報いさえも逃れることができると考えるのです。
しかし、この議論は成立しないのです。なぜなら不道徳の結果として生じる意識の薄れは、最も恐ろしい恐怖の条件と結びついているからです。死後、意識のこの暗黒化ほど巨大な恐怖はないのです。
そのように、ある一定の時間が経過すると、さらに全く異なる経験をすることになります。例えば、死と次の転生までの期間を生きる様々な人々を比較してみると、人間の死後の世界の後期においては、道徳的性質に加えて宗教的な魂の性質もその役割を果たしていることが分かるのです。
宗教的な思考が欠如している魂が、その欠如の結果として意識の薄れを経験するというのは疑いようのない事実なのです。この世で唯物論的な思考しか持たなかった人々の状態を観察すると、その唯物論の印象から逃れることができないのです。
死後まもなく彼らの意識は薄れ消滅します。この事実は、唯物論的な思考がいかに説得力があるように見えても、死後の人間の発展を促進しないことを証明しているのです。
ここまで、死後の存在の二つの段階についてこのように述べてきました。この第一段階には道徳的原則の影響があり、第二段階には宗教的思想の帰結が見られるのです。
そしてさらに第三段階が続きます。この第三段階は、もしこの暗化を防ぐ宇宙的な何らかの措置がなければ、すべての魂の意識が薄れていくことを意味しています。この第三段階を考察するときには、人間の様々な発達の周期を通じた、全人類の進化全体を考慮する必要があるのです。
キリスト教以前の時代、人々は死後のこの第三段階において意識をもたらすものを地上で獲得することができませんでした。それでもなお、この第三段階において意識を保持できたのは、地球進化の始まり以来、そこで人間が意識を保つことを可能にする特定の霊的力が授けられていたという事実によるのです。
私たち人類が世界の始まりから受け継いできたこれらの力は、秘儀参入に通じた霊的指導者たちの賢明な導によって維持されてきました。キリスト教以前の時代、世界中のさまざまな民族はこの秘儀参入者を通じて霊的聖域の影響を受け、その秘儀から霊的な生命が人々へと流れ出る方法が数多く存在していました。私たちはこのことを心に留めておかなければならないのです。
キリストの死が意味するもの
人類の進化がゴルゴタの秘儀に近づくにつれ、これらの衝動はさらに弱まっていきました。その外的な証拠は、キリスト教以前の時代における偉大な仏陀の出現に見ることができるのです。
仏陀の教えを注意深く吟味しても、霊界の本質に関する真の情報は何も明らかにならないことでしょう。実際、涅槃の教えにおいて霊界は否定的に描写されています。しかし、仏陀が霊界への入境を求める者に対してこの物質界へのあらゆる執着から離れることを求めたのも事実なのです。
しかし仏陀の教え全体を通して見たとしても、それは例えば古代の伝統を今なお残すバラモンの教えのように、霊界について詳細な記述は見当たらないのです。
ここで言及されている事実は、ギリシャ人がゴルゴタの秘儀の意味を体験するまでにも、それは様々な民族に現れていたことを強調しておかなければならないのです。
ギリシャ文明の時代、死と再生の間で人間の意識は薄れていました。そして、それを知っていたギリシャ人は霊界を影の領域として体験していたのです。ギリシャの時代、人間は地上において自らの力で美、芸術、調和のとれた社会状態を創造することができました。しかし死後の第三段階において光をもたらすものを、この物質世界で獲得することはでききなかったのです。
これは、ギリシアの時代に、人類がその進化の過程で古代の伝承の源泉を使い果たした地点にまで到達していたという事実と関係しているのです。
人類は、死後、前述した意識を維持するために必要な力を、物質界における自らの力だけで得ることはできませんでした。したがって人間の進化のこの時点で、人類はこの第三段階で意識を獲得するための刺激を外部から受け取らなければならなかったのです。
人間は、死と再生の間で意識を受け継ぐ力を失っていました。しかし、ゴルゴタの秘儀で起こったことに思いを向けることで、それを取り戻すことができたのです。この事実は次の通りです。
ギリシア時代にゴルゴタの秘儀で経験できたことは、死と再生の間の第三段階においてある人々の意識を照らし出しました。ゴルゴタの秘儀を理解することは、死後第三段階における人間の意識の刺激となるのです。
ギリシャ・ラテン時代について考えると、死後の第一段階では魂の道徳的性質が決定的な要因であり、第二段階では宗教的傾向が決定的な要因であったと言えるでしょう。しかし第三段階では、ゴルゴタの秘儀の理解が最も重要でした。この理解を得なかった者は、ギリシア人がかつて経験したように、死後の第三段階で意識の消滅を経験したのです。
ゴルゴタの秘儀は、まさに死と再生の間の中間期における人間の意識の再生を意味します。人類が失っていた古代の精神的遺産は、この出来事を通して回復されました。そしてキリストの出来事は、当時の人々の生活の支配していたその状況において起こらざるを得なかったことなのです。
私たち人類は、進化が進むにつれて絶えず新たな力を獲得してきました。キリスト教的な進化の第一段階において、当時生きていた人々によって語られ、その伝承によって伝えられたゴルゴタの秘儀の理解こそが、死後の第三段階で、私たち人間の魂に意識を維持する力を与えたのです。
今日、人間の能力のさらなる発達の結果として、ゴルゴタの神秘とキリストの存在の両方に対して、新たな関係が再び必要になっているのです。