自由の哲学2:我々と世界との再会・GA-2
思考といふ名のレンズ
「我々の生といふものは、ただ世界を眺めてゐるだけで心から満足できるやうには出来てはゐない」
我々が日々、露ほども疑はずに繰り返してゐる「思考」といふ営みは、実のところ、この茫漠たる世界を切り出し、形作るためのレンズそのものであります。暗がりの中に置かれた一客の漆器が、僅かな光を捉へてその輪郭を仄かに浮かび上がらせるやうに、我々の認識もまた、思考といふ光を投げかけることで初めて成立いたすのです。
しかし、悲しいかな、我々はその光が照らし出す「対象」の鮮やかさ、即ち知識の断片にのみ目を奪はれ、光を放つ道具そのもの、あるいはレンズに付着した曇りについては、驚くほど無頓着であります。これは謂はば「認識の闇」とでも呼ぶべき事態でございませう。深い陰翳を湛へた日本家屋の座敷で、手元の行灯が照らす一点のみを注視し、その灯火を支へる油の尽きゆく様や、芯の揺らぎを忘却してゐるのに似てゐます。
我々が真に世界を、そして自己を理解せんとするならば、照らされた事物から一度眼を離し、照らしてゐる光そのもの、即ち「思考」をこそ、冷徹なる観察の俎上に載せねばなりません。なぜなら、思考を観察することこそが、分断された我々と世界を再び結びつける唯一の入り口であり、このレンズの構造を知らずして得た知識は、すべて底の抜けた器に水を汲むが如き空しい熱情に過ぎないからであります。
我々は、なぜこの「思考」といふ細き光を掲げ、世界の深淵を覗き込まずにはゐられないのか、その魂の渇望の正体について紐解いて参りませう。
分断された魂:手品の種明かしを求める渇望
人間といふ存在は、ただ生物学的な歯車として生を繋ぐだけでは決して満たされぬ、業の深き生き物であります。大文豪ゲーテ殿は、その傑作『ファウスト』において、「ああ、私の胸には二つの魂が宿り、互いに離れようとしてゐる」と詠みましたが、これこそが我らの宿痾(しゅくあ)を言い当ててをります。自然は我々をこの世に送り出す際、完全なる調和の中に置くのではなく、あえて「不満」といふ名の呪い、あるいは贈り物を与へたのでございます。
例へば、庭先の木の枝が風に揺れる様を眺める時、我々は単にその「動き」を網膜に映すだけでは満足いたしません。昨日は静止してゐたあの枝が、なぜ今日は狂ほしく身をよじってゐるのか。あるいは、卵の殻を破って親と同じ姿の雛が還る時、その無垢な生命の背後にある見えざる糸、即ち「原因」や「法則」を執拗に求めずにはゐられません。
この心理は、手品を観賞する観客のそれと些かも変はりませぬ。シルクハットから飛躍する兎を観て、ただ拍手喝采するだけでは飽き足らず、帽子の二重底や袖口の仕掛けを探り出さうと目を凝らす。しかし、この知的好奇心が芽生えた瞬間に、冷酷な真実が我々を襲ひます。それは「観察する私」と「観察される世界」との決定的な分断であります。
かつては世界といふ母胎の中に溶け込んでゐたはずの魂が、独立した意識を持ったがゆゑに、世界との間に透明な、しかし鋼の如く強固な壁を築いてしまった。この深い孤独ゆゑに、人類は宗教の門を叩き、芸術に調和を託し、科学の論理を積み上げて、その埋めがたい溝を埋めようともがき続けてきたのです。この分断を埋めんと試みた先人たちが、いかにして思想の迷宮へと迷ひ込んでいったか、その足跡を辿ってみませう。
思想の迷宮:ミュンヒハウゼン男爵の陥穽
私と世界の統合を試みた諸学説の歴史は、言はば、麗しくも歪な夢の断片であります。
まず「二元論」は、精神と物質を完全に切り離して考へましたが、これは致命的な矛盾を孕んでをります。形なき精神が、如何にして重みを持つ肉体を動かし、物質界を認識し得るのか。その懸け橋を見つけられぬまま、彼らは「神が都度、精神の動きに合わせて物質を操作してゐる」といった、およそ正気の沙汰とは思へぬ苦し紛れの説明に逃げ込むほかありませんでした。
一方、一元論の道もまた、極北の荒野の如き厳しさでありました。思考を胃袋の消化と同列に扱う「唯物論」は、石ころや内臓が自らについて悩まぬといふ自明の事実を無視し、主観的な意識そのものを消去してしまひました。逆に、すべてを精神の産物とする「観念論」は、我々をエゴの円環の中に閉じ込め、生々しい物質界の手触りを幻影へと変へてしまったのです。
さらに、原子の一つ一つに精神と物質が宿ると説く説も現れましたが、これは問題を極小の世界へ押しやっただけで、謎の解決には程遠いものでした。
中でもランゲ殿といふ哲学者が陥った迷走は、悲喜劇と言ふべきものでせう。彼は「脳といふ物質が思考を作る」と認めながら、同時に「その脳もまた、我々の思考が作り出した表象に過ぎない」と主張しました。これは、底なし沼に沈みゆく男が、己の髪の毛を力任せに引っ張り上げて、宙に浮かうとする「ミュンヒハウゼン男爵」の法螺話と、構造において何ら変わりはございません。頭皮が剥がれるほどの痛みに耐へても、自らの力で泥濘から逃れることは叶はぬのです。
これらの学説がことごとく破綻したのは、問題の根本である「意識の内側での分断」を、外側からの理屈で接合しやうとしたからに他なりません。この袋小路から抜け出すための光は、意外にも、我々が「カバン」の中に忍ばせてきた私物の中に隠されてゐたのです。
内なる自然:カバンの中に潜む宇宙の破片
外なる世界を理解せんと望遠鏡を覗き込むのを一度止め、己の内面へと顕微鏡を向ける。これこそが、シュタイナー殿が提示した乾坤一擲(けんこんいってき)の転換であります。
ゲーテは「人間は自然の中にあり、自然は人間の中にある」と喝破いたしました。我々が自然といふ大きな実家を離れ、独立した「個」として歩み出した時、我々は決して手ぶらで放り出されたわけではございません。自らの内なる「カバン」の中に、自然の一部をこっそりと持ち出してゐるのです。その中身こそが、他ならぬ「思考の衝動」であります。
知識への根本的な欲求、即ち「なぜ」と問うて止まぬその力は、単なる個人の我儘などではなく、分断された宇宙を再び一つに編み直そうとする、厳然たる「自然の力」そのものなのです。我々が何かを理解しようと足掻く時、そこにはもはや個人的な思惑を超えた、普遍的な宇宙の営みが奔流となって流れてゐます。
思考する時、それは「私」が勝手に考へてゐるのではなく、宇宙の理が「私」といふ場所を借りて、自らを再構築してゐるのだと言へませう。自らの内面を深く穿ち、そこに「私以上の普遍的なもの」を見出すこと。抽象的な理論が霧散し、思考といふ生々しい事実だけが残る時、我々は再び世界との真実の再会を果たすことになるのです。
日常に潜む神秘の扉
ここまで辿ってきた認識の旅路は、単なる古書の中の物語ではございません。読者諸賢が明日、目が覚めた時に目にする世界を、根底から変容させるための鍵であります。
何事かを「理解した」と感じる瞬間の、あのパズルのピースが隙間なくはまるような恍惚。それは単なる脳内物質の分泌といふ浅薄な現象ではなく、引き裂かれた我々と世界が、思考といふ架け橋によって再び「宇宙との統合」を果たす、壮大なる神秘劇の一幕なのです。
日々、我々の視線は市場の喧騒や、浮き草の如き世の噂、あるいは刹那的な情報の奔流に奪われがちであります。しかし、どうか一度だけでよい、その視線を「思考が生まれるプロセスそのもの」へと向けてみては頂けまいか。外側の情報を追いかける手を休め、己の内側に持ち込まれた「自然の欠片」を、雪明かりを頼りに文字を読むやうに、じっと凝視するのです。
そこに、単なる「個」を超えた、宇宙の拍動を感じ取ることができたなら――。その時、貴方の目の前の世界は、もはや見知らぬ他人の冷ややかな顔ではなく、懐かしき故郷の如き温もりを持って、再び貴方を抱きしめてくれることでせう。自らの内なる自然を感じ、宇宙の修復に参与することの尊さを、静かに、深く、噛み締めて頂ければ幸甚に存じます。


