自由の哲学4:思考の深淵・GA4-4

思考といふ名の織物と、見落とされたレンズ

我々の生といふものは、片時も休むことのない思考の連鎖といふ織物によって編み上げられてをります。朝に目覚めてから夜の帳に沈むまで、我々の意識は休むことなく何かを捉へ、繋ぎ合わせ、意味の糸を紡ぎ出し続けてゐる。しかし、この織物のあまりの精緻さに、我々は肝心の「織り手」の存在を忘却してはゐないでせうか。

我々は通常、目の前にある「対象」、例えば掌の中のスマートフォンや、窓外に揺れる木々の枝葉にのみ執心し、それを映し出してゐる「思考」そのものには意識を向けぬものです。これこそが認識における最大の闇であります。我々が「世界をそのまま見てゐる」と信じ込んでゐるその眼差しは、実は「思考」といふ名のレンズを透かして見た景色に過ぎません。

レンズの存在を忘れ、ただ景色に耽溺することは、自らの認識の土台を闇の中に置き去りにすることに他ならない。我々の眼前に広がるこの鮮やかな世界が、いかにして「観察」と「思考」といふ二つの霧の中で形作られてゆくのか。その深淵なる機制を解き明かすべく、ルドルフ・シュタイナーの遺した智慧の燈火を頼りに、認識の奥底へと語り始めることと致します。

観察のあはひに潜む「概念」の影

我々が「世界を観察してゐる」と無邪気に信じてゐる時、その実、意識の底層では「概念」といふ能動的な営みが絶え間なく介入し、無機質な世界に意味の衣を着せてをります。シュタイナーはこの受動的な観察に思考がいかにして魂を吹き込むかといふ構造を、冷徹なまでに鮮やかに解剖して見せました。

九月の秋口、物寂しい山の原を逍遥してゐる場面を思ひ浮かべて下さいたまへ。不意に数メートル先の草むらから「カサカサ」と乾いた音が響き、草の葉がわななき動く。次の瞬間、そこから一羽の山鳥が羽音も荒く飛び立ち、我々は「ああ、鳥が居たから草が揺れたのだ」と即座に納得いたします。しかし、これこそが認識の蠱惑的な罠なのです。我々が純粋に観察したのは、単なる「音」と「揺れ」といふ断片的な現象に過ぎません。たとへその音を、どれほど精緻な虫眼鏡で永劫の時をかけて覗き込んだとしても、そこに「原因」といふ文字が刻まれてゐることは決してないのです。

この機制は、現代の魔術とも言ふべき「AR(拡張現実)アプリ」の如き趣を湛へてをります。カメラが捉へた無味乾燥な視覚データに、翻訳アプリが瞬時に「意味」のフィルターを重ね合はせるやうに、我々の思考は物理的なデータの上に「概念」といふ名の繊細な刺繍を施してゆく。地味な裂地に色鮮やかな糸で因果の文様を縫ひ成すごとく、思考はバラバラの経験に因果の糸を通し、一つの物語へと織り上げるのです。概念とは観察から滲み出すものではなく、思考によって後から密やかに付け加へられる「意味の贈物」に他なりません。もしこの思考といふフィルターを一時剥ぎ取ったなら、世界はいかなる貌(かたち)を晒すでせうか。そこには意味を喪失した、戦慄すべき無秩序が口を開けて待ってゐるのです。

素朴なる写実の崩壊と「覚層」の混沌

我々は通常、自分が見てゐる色の艶やかさや輪郭の確かさが、己の意識とは無関係に外界に厳然と存在してゐると疑ひもしません。これを「素朴な現実主義」と呼びますが、この安寧なる確信は認識の深淵に触れるや否や、脆くも崩れ去ります。

思考の介入を一切排した、純粋な観察の極致、シュタイナーが「覚層(近層)」と呼んだ状態を想像してごらんなさい。そこには「木」も「山鳥」も存在せず、ただ赤や青の色彩、不規則な音の震へ、温かさや冷たさといった感覚の断片が、互いに無関係に漂ふ「カオスの海」が広がってゐる。それは言はば、未だ形をなさぬ感覚の生々しい傷口が、キャンバスの上に無秩序にぶちまけられた原色の絵具のやうに混濁してゐる、おぞましくも幽玄な光景であります。

この衝撃的な事実を物語るのが、フランツ博士が記録した「先天性盲人の開眼手術」の事例です。手術によって光を得たその男は、かつて触覚のみで知ってゐた「丸」といふ形と、眼前に広がる「視覚的な丸」を、直ちに結びつけることが叶はなかった。彼にとって、指先でなぞった円の感触と、網膜を叩く色彩のノイズは、概念といふ「認識の接着剤」なしには決して統合し得ない、全く別個の幽霊のやうなデータに過ぎなかったのです。さらに言へば、我々が愛でる「赤」といふ色も、対象そのものの属性ではなく、我々の眼球の構造といふ身体的檻が生み出した幻に過ぎぬことを知らねばなりません。我々の認識は、身体といふ逃れられぬ牢獄に依存した、極めて危うい砂上の楼閣なのです。

脳蓋といふ暗室の孤独――批判的観念論の罠

科学的・生理学的な峻厳なる視点を突き詰めれば、我々はさらに救ひのない孤独の極みへと突き落とされます。「存在するとは知覚されることである」と断じたバークリーや、現代の科学が信奉する「批判的観念論」が描く世界像は、誠に凄惨なものであります。

省みて見なさい。外界に在るのは単なる「空気の振動」や「分子の反発」といふ、味も素気もない物理現象に過ぎません。それが鼓膜を震はせ、神経を駆け抜け、電気信号へと変ぜられて脳へと届けられる。我々が「トランペットの華やかな音色」として享受してゐるものは、実は漆黒の脳蓋といふ暗室の中で、たった独り上演されてゐる「VR(仮想現実)」の幻影芝居に過ぎないといふのです。外の世界にある振動は、神経といふ媒介を通る際、その物理的な痕跡を完全に抹消され、脳内で「表象」といふ全く別種のイメージへと翻訳されてしまふ。我々は決して外部の原因そのものに触れることは叶はず、ただ自身の脳の状態が作り出した「表象」といふ名の、虚ろな幻灯機を眺めてゐるに過ぎない。この論理に従へば、世界とは自分ひとりの脳内で完結する孤独な夢であり、我々は永遠に他者とも世界とも交はれぬ、孤独な観念論の囚人となってしまふのであります。

理性の自壊と、逆説の光

しかし、この一見して付け入る隙のない批判的観念論の城郭には、自らの足場を根底から切り崩す致命的な矛盾が潜んでをります。シュタイナーはこの理性の自壊プロセスを、外科医の如き手際で解剖して見せました。

批判的観念論は、そもそも「物理的な目があり、神経があり、脳がある」といふ、外の世界の実在を前提として華々しく出発いたします。ところが、その理論を最後まで辿り着くと、「目も神経も、そしてこの思考を司る脳自体も、すべては脳内の表象(幻)に過ぎない」といふ、滑稽なまでの自己否定に陥るのです。自らの正当性を証明するために借りてきた道具そのものを、結論において否定し去る。これは、己の尾を呑み込み続け、最後には自ら消滅してゆく「ウロボロスの蛇」の如き論理的自殺であります。

ショペンハウアーは「世界は私の表象である」と嘯き、我々は太陽そのものを知るのではなく、太陽を見る目を知るのみだと説きました。しかしシュタイナーは、これに対し鋭い刃を突きつけます。「その太陽を見る目自体も、単なる観察データの一片ではないか」と。イメージとしての目が、イメージとしての太陽を物理的に見ることなど不可能であり、外部観察の道が脳で途切れてゐるならば、そもそも「脳が表象を作る」といふ説明自体が成立し得ないのであります。内部からも外部からも閉ざされたこの袋小路を、鮮やかに穿ち抜く唯一の鍵。それこそが、我々が忘却してゐた「思考」に他なりません。

宇宙へと繋がる思考の「プラグ」

思考とは、脳といふ孤独な暗室に閉じ込められた主観的な幻想では断じてありません。それは、我々の内側から外界へと力強く突き抜け、対象の深奥へと接続される「聖なるプラグ」であります。

我々が思考の深淵において見出す概念、重力の法や因果の律は、決して個人の頭脳が勝手に捏造した幻ではなく、宇宙の骨組みそのものに内在する法則に他なりません。我々が思考する瞬間、我々は身体の檻を脱ぎ捨て、主観的な「表象」の殻を粉砕して、客観的な宇宙の拍動へと直接アクセスしてゐるのです。観察は身体に繋縛された受動的なデータに過ぎませんが、思考は我々を世界の本質へと連れ戻す能動的な橋渡しとなります。思考を通じて世界と結びつく時、我々はもはや脳蓋の暗闇に怯える囚人ではありません。バラバラに散らばった観察事実に概念の息吹を吹き込み、この欠けた世界を一つの意味ある全体へと完成させてゆく、壮大なる宇宙の創造に参画する共同作業者となるのです。

読者の皆様。次に蒼穹を仰ぎ見る時、その吸ひ込まれるやうな青さが、脳内の幻灯機が見せる束の間の幻なのか、あるいは貴方の思考が宇宙の真理と固く結ばれた証であるのか、今一度深く沈思してみてはいかがでせう。世界に意味を見出すといふことは、貴方自身の手によって、この宇宙といふ名の認識の絵巻を最後の一筆まで描き切ることに他ならないのですから。